Ventana al Teatro Latinoamericano
Body in Actionワークショップに参加して
ビオレタ・ルナさんに個人指導を受け、上智大学で開催された二度のワークショップにも参加したダンサーの權田菜美さんに、ビオレタさんとの出会いからワークショップで学んだこと、そしてそれが今自身にどのようなインパクトを与えているのかについて寄稿していただきました。
權田 菜美 (ごんだ なみ)
愛知県出身、ダンサー。主なスキルはモダンダンス、パフォーマンス・アート。高校生時代にダンスを始め、2003年All Japan Dance Festival Kobe にて振り付け作品「駆け出すための方程式」日本女子体育連盟理事長賞を受賞。
上智大学博士前期課程修了(修士号・地域研究)。
■主な出演履歴・活動履歴
2018年第30回カサブランカ大学国際演劇祭(モロッコ)に日本人初出品。メキシコ大使館でのメキシコ独立記念パーティーに出演。
2019 年 TPAM 横浜 2019にてグループミーティング主催、出品。メキシコ大使館にて単独公演「私もフリーダです」実施。3年連続でアートフェスティバルVIVE MÉXICO TOKYOに出品。
2017年より「資本主義社会のなかのダンス・パフォーマンス」「暮らしのからだ講座」等ストレッチやダンスの講座、パーソナルトレーニングなどを開講。
女優 ビオレタ・ルナとの出会い

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Blog:「dancer’s life」http://gonna-dance.hatenablog.com
FB/ YouTube/ Vimeo: Nami Gonda
Instagram/ Twitter: @namigonda
女優、ビオレタ・ルナさんとの出会いは、今も鮮明に自分の心に焼き付いている。2014年11月、東京、両国の劇場、シアターXにてビオレタ作品「国境の記憶」を観たのがその出会いだった。
薄黄色のさらさらの砂。くたびれたジーンズにパーカー。シャベル。古いトランク。モノクロの証明写真たち、、、。これら舞台に登る俳優たちに混じって、彼女はいた。
言葉のない、限りなく現実世界に近いパフォーマンスだった。彼女が表現する現実世界の中に、抽象度の高い要素が入り込んでくる。具体と抽象が同時に存在する様は、全てが詩的であった幼き頃の心象風景を見ているようだった。
白い大きな布を被った彼女は、もうすでに彼女ではなくて、神のようだった。この世界を天から俯瞰し続けると同時に、大地に深く根ざし世界を包んでいるような神様。その布の隙間から、この世のものとは思えない、だが、確かに人間の形をした白い手が、腕が、すっ、と出てくる。静謐そのものであった。女の身体を尊いと、その存在を美しいと思った。同じ身体を持つことに私は嬉しさを感じていた。
涙が出て止まらなかった。人びとの苦しさ、続く生活と生、人間の女の神々しさ、そして作品の美しさは、パフォーマンスの中に私を留めることを許さず、私を現実の厳しさに何度も引き戻した。厳しい現実に美しさも感じ、陶酔感と傷の間で引き裂かれるようだった。
舞台と客席の境界線が曖昧に溶け合う劇場の中で、確かに、私もこの世界を生きていると思った。ひとつは、舞台と現実社会のあわい、もうひとつは、あらゆる手段で人間が人間に人権を脅かされるという現実世界。危険を犯し国境を渡ったことはなくとも、自分の生きる東京と、彼女の大地は地続きなのだと感じた。


2014年当時、私は仲間と共に、路上で反原発、反戦平和、DVなどをテーマにパフォーマンスを行なっていた。手探りだが毎週のように次々に取り組んだ。そのような自分にとって、彼女の作品は衝撃と答えをもたらした。私が今やっていること、やっていきたいことは間違っていないのだと思えた。舞台後、彼女の講演も聞き、作品だけでなく、彼女の人間、そしてアーティストとして生きる姿勢に触れ、自分の感覚は確信になっていった。社会があり、そこには多くの問題があって、それに苦しんでいる人びとがいる。それに対してスピーチやデモ、集会以外の方法、即ちダンスやパフォーマンスで社会や政治にアプローチしていくという自分の作品づくりに対して疑問は持っていなかったが、劇場空間であそこまでのものに出会ったことがなく、作品やパフォーマンスとして問題を客体化していくこと、美しくアート作品として仕上げてしまうことなどには疑問を持ったままだった。しかし、彼女の美しくも真剣な作品が胸に刺さった時、「私のやりたいことはこれだ」と思ったのだった。
講演会直後ビオレタさんに、「あなたのワークショップを受けたい」と伝え、彼女の活動本拠地である米国に行く決意をした。彼女はマンツーマンのワークショップという特殊な形で受け入れてくれ、また吉川恵美子先生、上智大学グローバル・コンサーン研究所の多大なる支援を受けて実施することができた。
2015年2月、約1週間のワークショップを受けに初渡米した。カリフォルニア州サンフランシスコのミッション地区にあるダンス・ミッション・シアターというシアターでワークショップは行われた。この社会の中を生きる自分自身の存在と向き合い、当たり前とされていることを見つめ直し、再構築し、全てを身体に落とし込み、また表現していく、そんなワークショップだった。毎日、インスタレーションや短いパフォーマンスを作った。声や身体、空間との繋がり方などを発見した。改めて自分の身体やアイデンティティを相対化して見つめ、再度繋がりあっていくという経験だった。最終的に「body as usual」という短い作品を作った。ワークショップ以外にも、地元の大学での講演会、ギャラリーでの彼女のパフォーマンスなど多くに触れた。
二度目のワークショップ
2016年12月。日本では二度目のビオレタさんのワークショップが吉川恵美子先生の企画によって、上智大学グローバル・コンサーン研究所主催にて実施された。会場は上智大学、四ツ谷キャンパス内の教室。このワークショップは、ビオレタさんのベーシックなワークショップだった。
ワークショップを貫くテーマ
ビオレタさんのワークショップは、いつでも大きなテーマが貫かれており、「body in action」というタイトルに端的に現れている。そして、「今日、あなたはどんな境界線(borders)を超えたいですか?」という大きな問いが常に彼女から問いかけられる。このテーマと問いかけによって自分自身と、その身体、人生の時間に埋もれた揺らぎと対面することができる。何を境界線とするのか、超えるというのはどういうことなのか。課題と格闘しながらも、問いかけが楔のように刺さったままの身体は、最初に境界線を定めた自分自身とさえ、別人になってゆき、自問自答を繰り返す。当時の私は、「正しさ」に思考をとらわれる癖があり、自分の設定した境界線が正しいのかばかり考えていた。それ自体が思考の癖であることにも気付かずに、自分で課した「女性の身体」という境界線は正しいのか、これで自分は前進、成長できるのか、そんなことばかり考えていた。今は、「正しさにとらわれる」という境界線はいつの間にか、自分の中で薄くなっている。
教室を飛び出すという挑戦
最も大きな挑戦となったのは、安全に守られた教室を飛び出し、廊下はもとより、屋外のメインストリートを使ってワークショップを行なったことだ。屋外でのワークはサンフランシスコでも実施することが叶わなかったもので、パフォーマンスをする者にとって、その身体や表現を、日常空間に晒すというのは、何が起こるか予測がつかず、恐ろしささえ心に沸き起こる。ビオレタさんという先生や大学構内という条件に守られながらも、冬の空気とともに緊張したあの感覚は忘れられない。

参加者たち
ワークショップには他の参加者がいる。知っている人、知らない人。当時活発に作品創作と発表を一緒に行なっていたunknown knowns製作委員会のアーティスト達も参加しており、普段は見れない彼らの側面が見えたり、いつも見ている特性が強調されたりした。目線を合わせたまま互いの物理的距離を詰めるワークでは気絶しそうになり、手を繋いでゆっくりと歩くワークでは、私たちの間にある、身体という境界線をはっきりと認識した。自分の中の感情や感覚、記憶が掻き立てられ、またその接合点を浮き彫りにし、接しない部分は接触部分との対比がはっきりとし、その輪郭を際立たせた。
この人は誰なのだろう、私は誰なのだろう、この世界で触れている空気は何なのだろう、と全てに対して問いを発していた。同時に、世界を感じたままに受け止める、そんなこともしていた。ひとつひとつの課題の中には膨大な宇宙空間が広がっていた。今、私は私が感じた宇宙空間を紹介しているに過ぎない。
サンフランシスコでのワークショップはマンツーマン指導だった。それではできなかった他者との作業や関わりの中で、自分も相対化された。他者を意識している自分をまた意識し、その自分、そして他者、自分、他者と意識の向きが入れ替わる思考のループそのものが課題に与える影響が面白い。また境界線や身体、アイデンティティを全体のキーワードにしているため、同じ時間を共有していても、相手とは溶け合わない絶対的な領域でそれぞれが個人として生きていることを意識させられ、その中で協力したり、話したりした。日常が抽象化され、抽出されたようだった。

ビオレタさんは、サンフランシスコでDVサバイバーの女性グループに対するワークショップも行なっており、プライバシーを守ること、気の進まないことはやらなくて良いこと、無理に話さなくていいこと、などルールがあると教えてくれた。実際、そのワークショップに立ち会うことは叶っていないが、コミュニティの中で個人の安心を守ろうとする試みについて学んだ。上智大学でのワークショップでもこういった観点がふんだんに表れていた。
私がサンフランシスコに行きたいと彼女に伝えた最初の時、「仲間と一緒に何人かでおいで」と彼女は言ったが、それは叶えられなかった。そして言われた時はその真意が分からなかったが、上智でのワークショップを通して、
彼女のワークショップをある共通の問題や課題を抱えたグループを対象に行ったらものすごいエンパワメントと癒しになるだろうと感じた。技術的な側面もあるだろうが、心身、コミュニティの癒しにつながるだろう。だから、誰か、でなくて仲間が必要だったのだ。
テリトリーと俳優たち
自分の身体を一つのテリトリーとして捉えているのが、ビオレタさんのテクニックの特徴の一つである。ダンスや演劇の道具ではないのだ。それと同時に、パフォーマンス上で使う物もそれぞれが俳優という考え方で、メタファーとして考えず、本物を登場させる。物が持つ歴史や意味をそのまま舞台上に乗せるのだ。本物の家族写真、箪笥の中の普段着、というように。小道具と呼んではその意味が消えてしまう。そのようなテクニックは、自分の歴史やアイデンティティ、そして自分自身を作り上げる要素となっている物の歴史を、否応なく振り返ることになる。自分自身の物語を語ることが、境界線を超えて、さらには境界線を作り変え、社会と再度繋がっていく。世界と自分、他者と自分の重層的な関係が作品に込められていく。その要素や物語、歴史を肯定し、受け止める。当時の私はできなかったが、自分でそれらを抱きしめて見つめてやることの大切さを知ることができた。
ビオレタさんのワークショップを受けた当時の私は幼く、自分という境界線の中でもがき苦しんでいて、他者がよく見えていなかったし、他者が見えていないということにも気づいていなかった。そのため、他者と自分を同時に受け止めなければならないワークショップとその環境は、他者に苛立ちさえ感じ、その自分の感情にがっかりするというような、自分の未熟さとの闘いでもあった。当時のノートを読み返すと、葛藤と自責、境界性人格障害のような他者への苛立ちが綴られていた。ここまで、個人の心や記憶にも食い込むことは他のワークショップでは経験したことがなかった。
ビオレタさんは、私にダンサーとしての哲学の萌芽をくれた。私はアイデンティティに悩み、境界線に苦しみ、抑圧された身体からの死以外の解放を望んでいた。そしてこれは特殊なことではない。誰にだってありえることだろう。そんな時に、彼女の作品と出会い、彼女と出会い、彼女のワークショップと出会った。彼女のワークショップは、アーティストだけでなく広く一般に向けて開かれており、誰でも参加できる、というのは、ひとつのアートからの社会に対する答えだと思う。


ワークショップを経験し、その後。私の現在
2017年夏、ダンスを中心にした生活に切り替える決心をし、正社員で勤めていた会社を辞めた。2019年現在、ダンサーとして講師、創作、振り付けなどをしながら生活している。この決意を固めていった最後の言葉は、「ダンサーとして生きていけない、と自分に思い込ませているのは、外でもない私自身なのではないか」という疑問だった。脳から身体に、身体から脳に、「お前はできない」「お前は失敗作なのだから」という信号を送り続けているのは、私自身なのではないか、と。
まだ駆け出しであるが、ダンサーとしての人生を歩み始めているのが現在の私だ。この道への光と哲学をくれたのは外でもないビオレタさんである。
このような問いにたどり着いたのも、ビオレタさんのテクニックから、自分の歴史と身体、存在を肯定する試みを学んだことは大きい。それまでの自分は、自分ではなく他者が私に望む人生を歩もうとしていた。少しずつではあるが、他者が求める私と、私自身の間の乖離が激しく進み、青虫が蛹の中で解けるような時間が進んだ。そして、「できないかもしれないが、やってみよう」と考えるようになった。
現在、複数の創作プロジェクトを、メキシコ、モロッコ、アルゼンチンなど国境という境界線、性別や世代という境界線を越え、活動している。作品の中では、自分の歴史や傷と向き合い続けてきた。また、ジャンルに囚われることなく、ダンスだけではなく歌舞伎、演劇、舞踏など学びも続けている。
ダンスやボディーワークのワークショップの講師をする時は、いかに自分と他者の存在を肯定し、認め合い、時には互いに存在だけになれるように、自分や他者を愛することができるか、という挑戦を大切にして構成、指導している。
現在、米国ビザを申請中で、ニューヨークに移住する予定だ(*)。ビオレタさんとも、ゆっくりとした交流が続いており、共同制作で絵画「二人のフリーダ」を題材にパフォーマンスをしたいと話し合っている。渡米が叶ったら、彼女と集中して時間を持ちたい。師匠と弟子の共作。焦らず大事に作り上げ、みなさんにお届けしたいと考えている。
(*)2019年11月ビザ取得。
2020年1月、無事にニューヨーク移住を果たしている。


Photo Credits(表示順)
Joe
No Nukes Photographer (teppei sato)
Violeta Luna
Emiko Yoshikawa
Miyako Fujinami(ワークショップ3ショット)
Marisa Alvarez Alcocer
momo yago
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